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2010.7.18
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サウロの回心について

 

『ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、

突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は

地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわた

しを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた』。

               (使徒行伝93節)

 

 このところはサウロ(後にパウロ)がイエスに出会って

自分のしていることの間違いに気がつき、回心をしたとこ

ろです。そして、どんな人でも「回心すれば生まれ変わる

ことができる」ということについて話します。

 

 彼は二つの名前をもっていました。“サウロ”ともう一つ

は“パウロ”といい、後者はこの後のキリスト教会で有名

な名前となりました。そして“サウロ”はユダヤ人の名前

で、“パウロ”はローマ人の名前なのです。彼ら一族は生粋

のユダヤ人の名前で、パウロはローマ人の名前なのです。

彼ら一族は生粋のユダヤ人でしたが、お父さんが裕福な人

でお金でローマの市民権を買い取ったのです。ですから

後の話になりますが、ローマの官憲に捕らえられたとき、

「自分はローマ国籍をもった人間だから」といって、

ローマで裁判を求めたために、イタリヤに連行され、そこ

で彼は最後を遂げています。

 

 また、サウロはユダヤ人のなかでもエリートで、最高学府

といわれたガマリエル門下生でした。また身分はパリサイ派

に属し、ユダヤ教の熱心な信奉者でした。そしてキリスト教

徒を異端として迫害することに使命を感じていたのです。

758節にステパノが石で打たれて殉教したとき、その側で

処刑者たちの衣服を持ってけしかけていたとあります。また

83節にはエルサレム教会に対する迫害事件のとき、

『サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、

次々に獄に渡して、教会を荒らし回った』とあります。

 

 そのサウロがダマスコのキリスト教徒を捕らえて処刑しよ

うとしてダマスコに向かう途上、復活されたイエスに出会い、

『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』との声を

聞き、彼は自分の間違っていたことに気がついて回心した

のです。サウロの回心はまさしく180度の転回でした。

そして彼は数日後には『ただちに諸会堂でイエスのことを

宣べ伝え、「このイエスこそ神の子である」と説きはじめた』

のです。このサウロの変わりようにはみんな驚きました。

そして、その後『サウロはますます力が加わり、このイエス

がキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人

たちを言い伏せた』とあります。それほどの典型的な転回だ

ったのです。

 

 サウロが回心してキリスト教徒になったことにより、

キリスト教会のために大きな貢献をしました。その一つは、

イエスの教えを教理的に体系づけたこと。第二は、ローマ

書からピレモン書にわたる書簡によってキリスト教の信仰

の神髄を明らかにしたことでした。そして第三は、彼の異邦人

(外国人)伝道によって、キリスト教の福音が外国に伝搬して

いったことです。そして、当時の世界を征服していたローマ

帝国にまで及び、313年にコンスタンティヌス皇帝の時代に

『ミラノ寛容令』によってキリスト教が容認され、392

にはテオドシウス皇帝によってローマの『国教』となり、
このときからキリスト教は世界宗教となりました。

 

 これはキリスト教会にとって大きな貢献でした。何故なら、

エルサレム教会は西暦70年にローマ軍に攻撃されて壊滅的

打撃を受けて滅亡をしてしまったのです。そして初代エルサ

レム教会も打撃を受けたのです。もしこのとき、パウロたち

によって世界宣教がなされていなかったら、キリスト教会は

エルサレムと一緒に滅亡していたに違いないと推察されます。

つまり異邦人伝道は神の『摂理』だったのです。

 

 さて、コリント後書517節に『だれでもキリストにある

ならば、その人は新しく造られた者である』とあります。つま

り、「どんな人でもイエス・キリストを信ずるときに生まれ変

わることができる」というのです。ですから、キリスト教は

『生まれ変わりの宗教』『ボンアゲインの宗教』と言われて

います。つまり、自分の力ではできないことも、御霊の力に

よって生まれ変わることができるのです。

 

 ですから、わたしたちは簡単に人に「あの人は悪い人だ」

とレッテルを貼ってはなりません。信仰によって、そして

また御霊の力によってどんなに変わるかわからないからで

す。救世軍のブーツ大将がある夜、下町の暗がりを歩いて

いると、酒に酔っぱらった男が道端に寝ころがっていまし

た。すると付き添いの士官が、「あんな男は地獄に陥ちる

しか仕方ありませんね」と言ったところが、ブーツ大将は

「あんな男でも、生まれ変わったら、立派な救世軍の士官

になる」と言われたのです。ところがその後、その男が回心

してブーツ大将の言ったとおりの立派な救世軍の士官となっ

て、イエス・キリストの福音のために活躍をしたというので

す。まさしく、『だれでもキリストのうちにあるならば、

その人は新しく造られた者である』との御言葉のとおりに

なりました。

 

 世の人々は簡単にレッテルを貼りますが、クリスチャンは

「あの人も、いまにきっといい人になる」と信じて期待する

のです。コリント前書137節に『愛はすべてを信じ、す

べてを望む』とあります。つまり愛があるからです。

                     (July,18,2010)