本文へスキップ
2010.7.25
                                                      戻る

  

ペテロの異邦人伝道

 

『そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみない

かたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さる

ことが、ほんとうによくわかってきました」』。

                  (使徒行伝1034)

 

 このところはペテロが異邦人(外国人)伝道に導かれたところ

です。そして神の普遍的な愛が示されたところなのです。それ

までのユダヤ人は、自分たちは神から特別に選ばれた『選民』

であるという選民意識をもっており、他の民族を見下げるよう

なところがありました。そこでこの出来事をとおして、神は

全ての民族を同様に愛しておられる、という御心を示された

のです。

 

 それはペテロが見た幻がきっかけでした。9節以下を見ると、

天が開けて、大きな布のような入れ物が、四隅を吊るされて

地上に下りてきたので、中を覗くと四つ足や這うもの、空の鳥

など各種の生きものが入っていました。そしてペテロに「それ

を食べよ」と声がありましたが、これらの生きものはユダヤ人

が日頃から食べることを禁じられているものでしたから、彼は

それを拒否しました。こんなことが三度あり、神の御心を悟っ

たのです。つまり『神は、どんな人間をも清くないとか、汚れ

ているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました』

と言っています。

 

 そんなときに、カイザリヤに駐留するイタリヤ隊の百卒長

(中隊長のような立場の人)コルネリオから迎えがきたのです。

彼もまた神から『ヨッパの駐在するペテロを迎えて話を聞くよ

うに』と導かれたのです。コルネリオは異邦人でありながら

『信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、

絶えず神に祈りをしていた』とあるほどの評判のいい敬虔な人

だったのです。

 

 そしてペテロからイエス・キリストの福音を聞いたコルネリ

オと、その家族の上に聖霊がくだり、熱心なキリスト教徒とな

り、これがペテロの異邦人伝道のきっかけとなりました。この

出来事は「神が全世界の民を愛しておられること」、また「全

世界の民に福音を伝えなければならない、神の使命が明らか

に示された」のです。

 

 ルカ福音書210節に『すべての民に与えられる大きな喜び

を、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたの

ために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリスト

である』と御使が語りましたが、イエス・キリストの福音は

全人類に与えられた福音だったのです。神の普遍的な愛は人種

や生まれ、素性などによて偏り見ることはなく、真剣に神を敬

い、神に求めてくる者を顧みてくださるのです。マタイ福音書

544節には『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、

太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして

下さる』とあります。これが神の普遍的な愛なのです。

 

 人間は依怙贔屓(えこひいき)をすることがあっても、神は、

神を敬う人には栄光と誉れ、平安を与えてくださいます。それ

に対して人間の心は狭く(偏狭で)、自分のことしか考えない

ようなところがあります。そのよい例が『預言者ヨナ』です。

 

 彼は『北イスラエル王国』のヤラベアムU世の時代に活躍

した預言者で、ヤラベアム王を激励して「スリヤの手から

旧領土を回復すべきである」と預言した実在の人です。ところ

があるとき、神がヨナに臨み、ニネベに行って伝道することを 

命じられたのですが、預言者は『主の前を離れ』てヨッパに行

き、ちょうどタルシシ行きの船があったので、それに乗ったの

です。

 

 ところが、暴風が吹き荒れて船が転覆しそうな危険に遭遇し

たのです。そこで船を救うために積み荷や船具を海に投げ込み

ましたが、一行に暴風はやまずますます転覆の危険が迫ってき

ました。そこで船長は「この乗客の中に神に背いた人があるに

違いない。その人を生贄として海に投げ込めばこの船は救われ

るかもしれない」と、くじ引きで犯人探しをはじめようとしま

した。そこでヨナは自分が神に背いたために皆に迷惑をかけた
と、

船長に申し出て、海に投げ込んだときに、あれほど荒れていた暴風

も凪ぎて、うそのように静まり、乗客の命は助かった
のです。

 

 海に投げ込まれたヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日間

魚の腹の中で過ごし、神に背いた自分の罪を悔い改めまし

た。すると三日目に魚の腹の中から外に吐き出されて命は

助かりましたので、預言者ヨナは「主の言葉に従い」、ニネベ

に行き、ニネベの人たちに、「お前たちは悔い改めなければ

この町は40日後には滅びる」と叫びました。すると神の声に

耳をかさないような頑なな民と思っていたのに、『ニネベの

人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで

荒布を着た(悔い改めた)』のです。

 

 そこで『神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを

見られ、彼らの上に下そうと言われた災いを思いかえして、

これをおやめになった』のです。『ところがヨナはこれを非常

に不快として激しく怒った』とあります。それは自分の面通は

どうなるのか、という怒りでした。本来ならニネベの人々が

悔い改めたのですから、悔い改めを求めた預言者として、彼ら

のためにいちばん喜ばなければならないはずです。ところが

彼は「自分の立場はどうなる」と、神のことを思わず、自分の

ことにこだわったのです。

 

 彼もまた民族主義者で、異邦人であるニネベの人たちが

悔い改めて救われ、しあわせになるのを好まなかったのか

もしれません。

 

 それでも預言者は『ヨナは町を出て、町の東の方に座し、

そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを

見きわめようと、その下の日陰にすわっていた』のです。

ところが、神はその日陰にしていたとうごまを虫によって

枯らされたので、また太陽が彼の頭を照らし、彼は死ぬほど

苦しんだのです。

 

 そのとき主はヨナに言われました。『主は言われた、「あなた

は労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごま

でさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、右左

をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町

ニネベを惜しまないでいられようか」』。つまり神は自分の面通

ではなくひとりでも救われることが神の喜びであることを示された

のです。そしてこれが神の愛だったのです。

 

 もういちど最初に戻りますが、ペテロもユダヤ人で異邦人

の救いにはあまり関心がありませんでした。むしろ同胞の

救霊に心を注いでいたのです。ところが、あの不思議な幻を

見たことによって、神の御心は全ての民が救われることである

と知り、イタリヤ隊の百卒長との出会いがきっかけで異邦人

伝道に向かって行くことになったのです。今も神の御心は

すべての人が悔い改めて救われ、人種、民族、国民の区別なく

愛しておられるのです。これが神の『普遍的愛』なのです。

そしてそれが神の喜びなのです。

                          (July,25,2010)