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2011.8.21
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   クリスチャンのいのち

 

『主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけ
ない者、偽って誓わない者こそ、その人である』。

          (詩篇243-4節)

 

「クリスチャンのいのち、力の秘訣は潔められた生活にある」と
いうことをお話しします。その前に「主の山に登るべき者」とはエ
ルサレムのことで、ここに神殿がありました。そして「その聖所に
立つべき者とは」、その神殿で奉仕をする者のことです。そのよう
な者は「手が清く、心のいさぎよい者」、つまり潔められた者がそ
れにふさわしいと言っているのです。何故なら『わたしは聖なる者
であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』(ペテロ第
一書115節)とあるように、神は聖なる神です。この神に仕える
者は潔い者がふさわしいのです。また、テモテ後書2章21節に『潔
められて主の用に適い』とあります。

 

さて、わたしたちはこの世俗の中に生かされていますが、その中
でクリスチャンはそれに俗化されず潔い生活を送るのです。そして、
その潔さがクリスチャンのいのちなのです。何故クリスチャンはこ
の世の人々から尊敬され信頼されているのでしょうか。それはクリ
スチャンのもっている潔さのゆえです。もしクリスチャンがその潔
さを失ってしまえば、塩けを失った塩のようになんの意味もなくな
ってしまいます。

 

昔『AIDS』の問題が起こったとき、日本中が騒然としました。
そして身に覚えのある人たちは保健所に殺到したというのです。そ
のとき、あるテレビ番組でAIDSについて数人の有識者が対談をし
ていました。ところがその中で一人のパネラーが、「これからはク
リスチャンのように真面目な生き方をしなければなりませんね」と
発言をしていたので驚きました。その人はクリスチャンではなさそ
うでしたが、こんな重大な場面にクリスチャンを引き合いに出して
話したのには驚きでした。つまり、世の中の人たちはクリスチャン
をこのように見ているのだと知りました。そしてこの潔さがクリス
チャンの力なのです。

 

 旧約聖書の士師記に「サムソン」という人物が登場します。彼
は士師時代の士師でペリシテ人と戦った人でした。この時代は多く
の士師が登場し、イスラエルの国難のときには活躍して外敵の侵入
から国を守ったのです。しかし、多くの士師はイスラエルの民を率
いて戦って司令官のような立場でしたが、サムソンは一匹狼で一人
でペリシテ人と戦ったのです。彼は怪力無双でロバの顎骨でペリシ
テ人一千を倒したという活躍をしたのです。その彼の力の秘訣は潔
さにありました。彼は生まれたときから「ナジルびと」として育て
られました。この「ナジルびと」とは将来神に仕える者として育て
られ、剃刀を当てたことがなく、また濃い酒を飲みませんでした。
その潔い生活が彼の力の秘密だったのです。

 

ところがペリシテの女性デリラに心を奪われて自分の力の秘密を
打ち明けてしまいました。そして彼が寝ていた間に彼の力のもとで
ある髪の毛を切られて全く無力なものになってしまいました。そし
てペリシテ人に捕えられて両眼をくり抜かれ、地下牢のようなとこ
ろで牛の代わりに臼を引かされるところにまで落ちぶれたのです。
それはサムソンが潔さを失ったからです。わたしたちクリスチャン
の力の秘訣も潔さです。もしその潔さを失ったらサムソンのように
惨めなものとなってしまいます。

 

しかし彼は髪の毛が回復するのに従ってその力も回復してきたの
です。そしてある日、ペリシテ人のダゴンの祭りの日、なぶりもの
にしてやろうと祭りの広場に引き出されたとき、彼はドームの大黒
柱を力に漲って押し倒したとき、ドームの天井が落下してその下に
いた大勢の人は死んでしまったのです。(勿論サムソンも一緒に死
んでしまいましたが)。そして聖書は『こうしてサムソンが死ぬと
きに殺したのは、生きているときに殺したものよりも多かった』と
この物語を綴じています。

 

 では、どうしたら潔い生活を送ることができるのでしょうか。ヨ
ハネ第一書17節に『御子イエス・キリストの血、すべての罪より
わたしたちをきよめる』とあります。つまりイエス・キリストを信
ずるとき、わたしたちの罪を赦して潔いものとしてくださるのです。
また、出エジプト記2937節には『すべて祭壇に触れる者は聖と
なる』とあります。つまり神の臨在に近づくときに御霊がわたした
ちを潔めてくださるのです。

 

 わたしたちは日曜日に教会に来て礼拝をします。これは神の臨在
に近づくことなのです。礼拝を守っている間に御霊がわたしたちの
魂を潔めて、新しい力を与えてくださるのです。ある人は言いまし
た。「教会は製紙会社のようなものだ」と。つまり集められた古紙
がトラックに積んで製紙会社に運び込まれます。このときは会社の
裏口から運び込まれますが、そこで機械を通してきれいな再生紙と
なります。そして会社を出るときは、こんどは表からでて行くので
す。これが礼拝なのです。わたしたちは一週間の労働で疲れ果て、
またこの世俗との戦いで魂が弱り果てていても、教会に来て礼拝を
している間に御霊はわたしたちを潔めて、新しい力を与えて一週間
のために備えてくださるのです。これが礼拝をする意味なのです。
ですから皆様も聖日礼拝を大切に守ってください。『壇に近づく者
は潔くなるべし』です。                              
                      (Aug,21,2011