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2011.8.28
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        できる限り謙虚で

 

『できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって
互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守
り続けるように努めなさい』。      (エペソ書42節)

 

ここに『謙虚で』とありますが、今日は『謙虚』ということに
ついて話します。『謙虚』とは「神を畏れ敬い、神の前に謙遜で
あること」を言います。よく子供のころに親から『謙虚でありな
さい』と言われたことを思い出します。これは神を畏れ敬うクリ
スチャンに与えられるものです。

 

話は変わりますが、詩篇3312節に『主をおのが神とする国
はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいで
ある』とありますが、このみ言葉はアメリカの議会の開会式のと
きに必ず読まれるみ言葉だそうです。そして祈祷をして開会をす
るのです。またアメリカ大統領の就任式のときは、聖書の上に手
を置いて宣誓をし、牧師が祈るのは自明のことです。政教分離を
建前とするアメリカですが、これだけは守っているのは、この国
の発祥がピューリタン(清教徒)だからです。

 

ピューリタン(清教徒)とは、アメリカの新大陸の開拓時代、
信仰の自由を求めてイギリスから移住をしてきた人たちのことで
す。その当時のイギリスは『英国国教会』の時代で、ヨーロッパ
系のプロテスタントの人々は迫害されていました。そこで信教の
自由を求めて彼らは新大陸に移住をしてきたのです。その一行は
長い航海をして新大陸に到着をしたとき、まず最初に祭壇を築い
て航海の安全を感謝し、これから始まる開拓のために神に祈った
のです。この信仰と精神がアメリカの土台となったのです。

 

さて、話は変わりますが、今日は日本の近代史から少し話をし
ます。今から百年余り前(正式には1904年)に、日本は満州、
朝鮮の制覇を争って帝政ロシア(後のソ連)と戦争をしました。
これを『日露戦争』といいます。このとき世界中は日本の勝利を
だれも信じていませんでした。何故なら、世界地図を開いてみれ
ばわかるように、ロシアと日本とではその領土の広さからしても
格段の差がありましたので、まるで巨象に小犬が吠えているよう
なものだと思われていたからです。

 

ところが、奉天大会戦、旅順攻略、日本海海戦で奇跡的な勝利
をしたのです。わたしが中学生のとき、父の本棚から『明治大帝』
という分厚い書籍をみつけて呼んだことがあります。ところが、
その中は日露戦争に従軍をした軍人たちの回顧録がまとめられた
ものでした。そして、どの回顧録にも最後には、「この勝利は天
佑であった」と結んであるのに気がつきました。まだ「天佑」と
いう意味がわかりませんでしたので辞典を開いてみますと「神の
助け」とありました。つまり軍人たちは戦いの勝利は自分たちの
力ではなく、天佑、つまり神の助けだと書いていたのです。それ
を読んで子供ながら、「すごいことが書いてある」と感動したこ
とを覚えています。

 

後になって、日露戦争に勝ったことが、果たして日本のその後
のためにはよかったのかな、と思うようになりました。この戦争
に勝利をしたことが若手将校たちを思いあがらせ、「日本人には
大和魂があるから」と、神を畏れることを失い、恐ろしい野望を
抱いて大陸に、また東南アジアに侵略をしていったのです。『大
東亜共栄圏』、また『八紘一宇』というスローガンのもとに侵略
戦争を進めていったのです。『大東亜共栄圏』とはアジアを一つ
の共栄圏にするという意味です。また『八紘一宇』とは、世界を
一つの屋根のもとにまとめるという意味で、その屋根の頂点に日
本があるというのです。つまり日本の傘下に大陸もアジアをも一
つにするというのです。そして当時、イギリス、フランス、オラ
ンダの植民地になっていた東南アジアの国々を解放するという戦
争を始めたのです。

 

しかし、このような思い上がりを神は許されるはずはありませ
ん。そして昭和16年(1941年)にはハワイに奇襲攻撃をしてア
メリカと戦争をはじめ、1945年(昭和20年)に日本は無条件降
伏をしたのです。

 

箴言1618節に『高ぶりは滅びにさきだち、誇りは倒れにさ
きだつ』とあります。高ぶる者、誇る者の最後は必ず滅びです。
神は高ぶり、誇りを許されないかたです。ですからわたしたちも
謙虚なクリスチャンになりたいものです。どんなときでも神を畏
れ敬い、謙虚であることがキリスト教倫理なのです。

 

徳川家康は1603年に江戸で『徳川幕府』を開きました。しか
し家康は生来苦労をした人でしたので、将軍になっても決して
華美な生活をすることを快しとしないで「一汁三菜」の食生活を
通したといわれています。その謙虚さが15代将軍、徳川慶吉が
1867
年に『大政奉還』するまで265年間の幕府を支える力とな
ったのです。それに対して、豊臣秀吉は尾張の中村の貧乏百姓の
出身でした。そして出世を願った彼は織田信長に仕えて、苦労の
すえ天下の人となりましたが、成り上がり人の彼は贅沢を極めた
生活をしたのです。その中でも千利休に造らせた「黄金の茶室」
は有名で、組立式の茶室を九州の前線にまで運び、大名たちを茶
会に招いて驚かせて得意になっていたそうです。しかし秀吉の天
下は一代にして終わってしまいました。それは秀吉に謙虚さが足
りなかったからです。『できる限り謙虚で…』                                  
                     (Aug,28,2011