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2010.9.12
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高齢者のために

『正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように
育ちます。彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
主の正しいことを示すでしょう』。   (詩篇92篇12節)  

 これは神を畏れ敬う者の繁栄をうたった詩篇です。そして今日は
『敬老の日』ですからそれに因んだ話をします。
 この「正しい者」とは、道徳的、また倫理的に正しいという意味
ではなく、宗教的な意味で「神を畏れ敬う者」という意味です。
『神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である』と
伝道の書12章13節にありますが、神を畏れ敬うことが人間にとって
最も大切なこと、また基本です。そしてそれが人間のしあわせに
つながるのです。
 そしてこのような人は、『なつめやしの木のように』、また、
『レバノンの香柏』のように栄えるというのです。『なつめやし』
はイスラエルの代表的な樹木で、たくさんの実を結ぶことから
豊穣のシンボルとされています。またこの木は成長が早く90フィート
(約30メートル)の高さにまで成長し、200年の寿命があるという
長寿の樹です。また『レバノンの香柏』は力と永遠性のシンボルと
言われています。このように神を畏れ敬う人はいつまでも栄えると
いうのです
『彼らは年老いても、なお実を結び、いつも生気に満ち、青々として
主の正しいことを示すでしょう』とあります。これは、神を畏れ敬う
人は神の恵みによって、いつまでも壮健で、神のために生かされる、
という意味です。『年老いてなお実を結び』とありますが、
「年老いたから何も役に立たない」と言っているのではなく、
いつまでも生気に満ちて青々として生かされるのです。

 コリント後書4章16節に『たといわたしたちの外なる人(肉体)は
滅びても、内なる人(霊的魂)は日ごとに新しくされていく』とあり
ます。確かに、わたしたちの肉体は歳と共に衰えますが、霊的魂は
神の恵みによって新しくされていくのですから、「歳をとったから
駄目だ」「もう役に立たない」というようなことは決してありません。

 いまマスコミにもよく登場し、話題の人、日野原重明先生は現在
99歳ですが、非常に精力的に活躍をしておられるクリスチャン医師
です。この前もニューヨークのブロードウェーでステージに上がって
若い人たちと一緒に踊っておられるのをニュースで見ましたが、あの
元気さはいったいどこにあるのでしょうか。先生のスケジュールは
三年先まで埋まっておられるそうです。そして、毎日、講演などの
スケジュールを一つずつこなしていくその生きざまはたいしたもの
です。そこに先生の元気な秘訣があるのです。そして先生は最近
『俳句』を始められたそうです。俳句を練って頭を使うことも長寿の
秘訣かもしれませんが、やはり先生の壮健の秘訣はクリスチャンとして
の生きかたではないでしょうか。

 高齢者は毎日なにか目標、スケジュールをもつこと大切ではないかと
思います。毎日なにもすることがなく漠然として生きておられる方も
おられますが、それではあまりにも寂しい生きかたではありませんか。

 昔、田舎の駅の待合室にその地方の老人クラブの人たちの吟じた
川柳が貼ってありました。電車の来る間、ひとつひとつ眺めて
いますと、気になる一句があります。それは『死にのぞむ日々を
俗用にまぎらわし』とありました。それをみて何と寂しいというか
虚しい人だなあと感じました。毎日毎日を何をするでなく無為に
過ごす人生はあまりにも悲しいではありませんか。

 定年退職して静かな老後を過ごすのもいいですが、その日その日の
何か目標というかスケジュールがないと虚しい一日です。ある年寄り
は、朝起きると「今日はなにをして一日過ごそうかな、と考える毎日
で、いやになります」と言っておられましたが、目標のない人生ほど
無為なものはありません。

 あるお婆さんは、この方はあまり身体は丈夫な人ではありませんで
したが、「日曜日に教会から帰ると、その翌日から、また次の日曜日
のために一週間かけて体調を整えるのだ」と話しておられましたが、
それが彼女の生き甲斐だったのです。そして恵まれて天国に召されて
いかれました。

 あるお年寄りがこんな話をしておられました。町内会の人に誘われ
て老人会に行ったところが、そこで話されることは嫁の悪口や人の
陰口ばかりで、クリスチャンであるその姉妹には聞くに耐えられなかっ
たそうです。そして二度と行かないと決心をしたそうです。

 それを聞いて、その老人たちのために教会で『昼の祈祷会』をはじ
めました(これが現在の祈祷会のはじまりです)。そして祈祷会の後に
お茶とお菓子を出して夕方まで教会でゆっくりしてもらおうと計画を
いたしました。そして30名ほどのお年寄りが集まってくださり恵まれ
た集会となりました。ところが、集会の後にゆっくりとしていただく
つもりでしたが、皆様、集会が終わってお茶を飲んだらさっさと帰って
いかれるのです。そこで考えたのは、集会で恵まれたらだらだらする
必要がない、ということだったのです。

 とにかく、一週間を無為に過ごすのではなく、日曜日の礼拝だけでは
なく、水曜日の祈祷会にも参加することは素晴らしい日々ではありませ
んか。『神に近くあることは、われにとってよきことなり』とあります。
とにかく、神の臨在に近づくことがいちばん大切なことです。そして
そこに恵みがあるのです。

 最後に、イザヤ46章4節に『わたしはあなたがたの年老いるまで
変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、
必ず負い、持ち運び、かつ救う』。これは、神がわたしたちの全生涯を
責任をもってくださる、という意味です。わたしたちはこの約束を信じて
いるから心強いのです。

 「信仰をもっている人は、世間一般の人よりも10歳は若く見える」と、
よく言われますが、これは心にいつも『平安』が与えられているからです。
また『天国の約束』を信じているからです。

                         (sep,12, 2010)