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2010.9.19
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異邦人伝道に導かれたのは

 

『さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に

行くのだ。主はわたしたちに、こう命じておられる、

「わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地に果て

までも救い(福音)をもたらすためである」』。

(使徒行伝1346)

 

 これはアンテオケの地方で福音が異邦人に宣べ伝えるようになった

経緯について書かれたところです。その原因はユダヤ人の妬みだった

のです。この『アンテオケ』は、「クリスチャン」と呼ばれたアンテオケ

ではなく、ガラテヤ地方のアンテオケです。

 

 パウロとバルナバは『第一回伝道旅行』のときに、この地方のユダヤ人

の会堂で教えました。ところが全市をあげて人々が神の言を聞こうとして

集まってきて喜んだので、それを見てユダヤ人たちは『ねたましく思い』

『口ぎたなく反対した』のです。

 

 そこでパウロは、『さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、

異邦人たちの方に行くのだ』と、異邦人たちに福音を語るようになった

のです。そこで異邦人たちは『これを聞いて喜び、主の御言をほめたたえ

てやまなかった』、『こうして、主の御言はこの地方全体(異邦人社会)

ひろまって行った』のです。またイコニオムでも『ユダヤ人やギリシャ人

が大ぜい信じた』(141)とあります。

 

 このように、福音がユダヤ人にもたらされたのに、神の選民である

ユダヤ人たちが恵みからもれたのは、それは、彼らの「妬み」のため

に素直に受け入れられなかったからです。『しかし、彼を(素直に)受け

いれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を

与えたのである』(ヨハネ福音書112)とあります。つまり素直に

受け入れた者に恵みがもたらされたのです。

 

 旧約聖書の箴言に『妬みは骨の腐りなり』(文語訳)とありますが、妬み

は真理から目を反らして、冷静な判断ができなくなります。そしてイエス

を十字架にかけて殺したのもユダヤ人の妬みでありました。マタイ福音書

2718節『彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであること

が、ピラトにはよくわかっていた』とあります。ユダヤ人、特に

パリサイ派の人たちの妬みからです。それは、これまで自分たちが

ユダヤ人たちから尊敬され、注目されていたのに、イエスの出現によって
民衆の歓心はイエスに向けられたので、彼らは面白くなく、妬みから

イエスを殺そうとしたのです。ですから『妬み』ほど恐ろしいものは

ありません。犯罪の多くはこの妬み心が原因であることが多いのです。

 

 わたしたちに、もし妬み心があるならば、御霊によってそれを聖別

されることが大切です。そうしないとどんなに恐ろしいことが起こるか

わかりません。年頃の娘を失ったお母さんが、ある日銭湯に行きました。

そして湯船に浸かっていたら、ちょうど娘と同じ年頃の娘がしあわせ

そうな顔をして湯船に首まで浸かっていました。その様子を見て、

自分の娘は死んでしまったのに…、と思うとカッとなり冷静さを失い、

そっと近づいてその娘の太股をおもいきりつねったのです。すると

その娘は驚いて湯船から飛び出して行ってしまいました。これも

お母さんの妬みでした。

 

 その後で、そのお母さんは「わたしはなんと罪深い者でしょう」と

言って悔い改めていましたが、このように妬み心は多くの犯罪を引き

起こします。ですから、もしわたしたちの心の中に妬み心があるならば、

御霊のお力によって潔めていただかなければなりません。コリント前書

134節に『愛は寛容であり、愛は情深い、またねたむことをしない』

とあります。御霊に満たされると愛が与えられ、愛のある人は妬むこと

はしません。

 

 また、妬み心があるならば、人の好意も素直に受け入れることも

できません。サムエル記下9章、10章に『メピボセテ』と『ハヌン』

というふたりの人物のことが対照的に書かれています。ダビデ王が

王位について安定したころ、自分がサウル王に追われて逃亡していた

ときに世話になったヨナタンのことを思い出しました。彼はサウル王

の息子で王位継承者のひとりでしたが、神の御心がダビデにあること

を悟ったとき、彼は自分の立場を忘れてダビデのために手をかして

助けたのです。

 

 そこでヨナタンの恩に報いたいと思いましたが、彼はすでに戦死

してこの世にはいませんでしたので、彼の忘れ形見を探したら

メピボセテという子供が僻地で息を潜めて隠れていることがわかり

ました。そこで王は彼のもとに使いを送り、父ヨナタンの恩に報い

たいからエルサレムに来るように伝えたのです。するとメピボセテ

はダビデ王の申し出を素直に受けてエルサレムに出てきましたので、

彼は『王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした』とあります。

つまり、王子のひとりのような待遇を受けたのです。それは王の

申し出を素直に受け入れたからです。

 

 ヨハネ福音書111節に『しかし、彼を(素直に)受けいれた者、

すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた

のである』とあります。これはイエスの来臨のときのことですが、

このイエスを素直に信ずるものはさいわいな者です。しかし、なかなか

素直に信じられないのは罪人だからです。わたしたちも素直に福音を信じ
て神の子とされたいものです。

 

 次の章にはハヌンという人が登場します。ダビデはまた逃亡中に

ハヌンの父にも助けられたのですが、彼はすでに死んでしまいました

ので、彼の息子ハヌンに同じ申し出をしたのです。ところが、彼は

ダビデの申し出を素直に受けることができずに拒絶をしました。

それはダビデを疑ったからです。またダビデの出世を面白く思って

いなかったのです。そこで彼は使者の髭を剃り落とし、衣服の裾を

切ってミニスカートのようにして辱めたのです。そのため使者は

ダビデのところに恥ずかしくて帰れませんでした。その結果、

ハヌンはダビデの復讐を恐れなければならなくなったというのです。

 

 ダビデの申し出を素直に受けることができなかったのは、自分の

親が助けたダビデが王位についたのが面白くなかったからです。

詩篇1826節には『あなた()は慈しみある者には、慈しみある

者となり…、ひがんだ者にはひがんだ者となられます』とあります。

もしハヌンもダビデの申し出を素直に受け入れていればこんなに

恐れるようなことはなかったのです。

 

 ヤコブ書121節に『心に植えつけられている御言を素直に受け

入れなさい』とあります。この御言のように素直に受け入れる者だけ

が恵みを受けるのです。

 

                         (Sep,19,2010)