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2010.10.31
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ルターの宗教改革の意義

 

『人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰に
よるのである』。          (ローマ328節)

『それは、イエス・キリストを信じる神の義であって、すべて
信じる人に与えられるものである』  (ローマ322)

 

 今日は『宗教改革記念日』です。そこでマルチン・ルターの

宗教改革についてお話します。キリスト教の三大宗派は『カト
リック教会』、『ギリシャ正教会』、そして『プロテスタント
教会』ですが、これらは最初から並列してあったのではなく、
ローマカトリック教会から分離をしてできたものです。そこで
わたしたちが属するプロテスタント教会がどうしてローマカト
リック教会から別れたのか、その辺を学んでいきたいと思いま
す。そうすればいま属するプロテスタントの特徴がはっきりし
ます。

 使徒パウロたちの伝道によりキリスト教の福音は各国の異邦人
(外国)に伝えられました。そして392年にテオドシウス皇帝の
ときにローマ帝国の『国教』となったのです。ローマ帝国は当時
の世界の覇権を握っておりましたので、キリスト教も世界宗教と
して発展していきました。しかし、当初はローマ帝国の保護の
もとにありましたので『皇帝教皇主義』という言葉で表現される
ように、教会の上に国家があって、国家が教会を保護するという
位置づけだったのです。

 

 ところが歴史を経るにつれて次第に教会の勢力が拡大され、
国家より教会のほうが上位になったのです。これを『教皇皇帝主義』
といいます。その原因の一つは諸侯の貴族たちが教会に自分たちの
領土の一部を寄贈するようになり、『教会領』が増えて教会が莫大
な財産をもつようになったのです。もう一つ、歴史的事件がありま
した。それは『カノッサの屈辱』という事件です。皇帝ハインリッ
ヒ四世が教皇グレゴリウス七世に背きカトリック教会を破門されて
しまったのです。皇帝ははじめはたかをくくっていましたが、自分
の臣下たちが破門された皇帝の命令を聞き従わなくなりました。
そこで皇帝は教皇の権力の大きさを知り、教皇に破門を解いてくれ
るよう依頼しましたが、教皇はこれを聞き入れませんでした。そこ
で皇帝は教皇のいるカノッサの城門で厳寒のときに数日間たたずみ、
破門を赦してほしいと懇願しました。そしてようやく破門は解かれ
ましたが、このことが教皇の権力の大きさが証明されることになっ
たのです。

 

さて、このようにして中世のカトリック教会の権力は絶大を極め
ましたが、これがまた教会の逸脱を生み出したのです。このような
時代に宗教改革者となったマルチン・ルターが登場したのです。
彼はドイツの片田舎の貧しい炭鉱労働者の子として生まれましたが、
父は彼の才能を認めて高等教育を受けさせ、最高学府で法律を学ば
せたのです。ところが、ある事件を通してルターの生涯が一変した
のです。ある日、友人と郊外を歩いていたときに、突然天候が変わり
雷雨となりました。そこで近くの大きな樹木の下で雨宿りをしていた
とき、落雷がその樹木に落ちて一緒にいた友人は即死をしてしまった
のです。そのときルターは『マリヤさま、命を助けてくださったら、
わたしの一生は神のために捧げます」と祈りました。その祈りが答え
られたのか一命を助かったルターは、その誓いを果たすために父の
反対を押し切って、修道院に入って修道士となったのです。

 しかし、彼には救いの確信も平安もありませんでしたので、
それを求めて難行苦行をしました。上半身裸で革の苔で自分の身体
をうち叩いて苦しみを味わいましたが、身体の痛みを覚えるだけで、
魂の救いも平安も与えられませんでした。また、ローマに行ったと
き、聖ピラト寺院の石段を主の祈りを唱えながら登りましたが、
それでも救いの確信も心の平安も与えられませんでした。

 

 そんなとき、彼は聖書を読んで、ローマ328節の『人が義と
されるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである』
との御言葉に接して、人が救われるのは難行苦行ではなく信仰による
ことを知ったのです。また同じ322節の『義人は信仰によりて生き
る』とのみ言葉により、『信仰義認』が彼の生涯の信仰のテーマとな
ったのです。

 

 そんなときに『免罪符』の問題が起こったのです。教会が聖ペテロ
寺院の建築のために『免罪符』を売り出したのです。これは当時の社
会に大きな弊害を起こしました。『免罪符』とは中世カトリック教会
が発行した贖宥状で、煉獄の苦しみから解放して天国に入れるという
ものです。因みに『煉獄』とは、これもカトリック教会の思想で(プ
ロテスタントにはありません)、天国と地獄との間にあって、死者が
天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じている場
所です。(広辞苑)

 ところが、これを売っていた修道士が「あなたのお金がチリンと音
がして箱に入った瞬間に、あなたの魂は天国にはいるのだ」と言った
といわれています。またある晩、ルターが場末を歩いていたところ、
酒にへべれけれに酔った男が道路に寝ていたので、「こんなことを
していたら天国に行けなくなる」と注意したところ、その男は懐から
『免罪符』をとり出して、「おれには、これがあるから大丈夫だ」と
叫んだとあります。

 この『免罪符』の弊害を憂慮したルターは、その『免罪符』の根拠
を聖書の中から調べましたが、それについて書かれたところはどこに
もありませんでした。そこで意を決したルターは15171031日に
ドイツのウィッテンベルグ城門教会の扉に、95ヶ条になるテーゼ
(質問状)を打ちつけたのです。彼ははじめからローマ教皇に反抗して
分離を意図したのではなく、『免罪符』の根拠がどこにあるのかという
質問だったのです。ところがこの問題は多くの人たちも関心をもってい
ましたので、その日のうちにラテン語から各国語に翻訳されて読まれた
のです。そして「ルターはローマ教皇に抗議(プロテスト)した」とい
って、『プロテスタント』と呼ばれるようになったのです。

 

 前にも書いたように、ルターは最初からカトリック教会から分離独立
をすることを意図したのではなく、ただ聖書の正しい信仰に立ち返るこ
とを願ったに過ぎませんでした。しかし、世界の関心はローマ・カトリ
ック教会にあり、これが契機でヨーロッパの国の半分がプロテスタント
教会となったのです。

 カトリック教会から分離したルターは、新約聖書のドイツ語の翻訳に
没頭しました。中世の教会の弊害の一つは、当時の聖書がラテン語で書
かれ、よほどの学識のある者でなければラテン語の聖書を読むことはで
きず、神父たちでさえも十分に聖書を理解することができないような状
況でした。あるとき、ルターがひとりの神父に「ローマ書の中心テーマ
は何か」と聞いたところが何も答えられなかった、ということです。今
の皆さんは「それは信仰義認です」と答えられるとおもいますが。

 

 そして翻訳した聖書を当時発明されたばかりのグーテンベルグの印刷
機で印刷し、どんな人でも手に入れることができ、手軽に読むことがで
きるようになりました。やがてドイツ語からフランス語そして英語とど
んどんと各国の言葉に翻訳され、だれでも自国語で読むことができるよ
うになりました。

 

 カトリック教会とプロテスタント教会の特徴の一つは、その教会
の祭壇にあります。カトリック教会は聖堂の正面に十字架にかかっ
たイエスの像と幼子イエスを抱いたマリヤ像がありますが、それに
対してプロテスタント教会は礼拝堂の正面にはデーンと講壇(演壇)
があるだけです。つまりプロテスタントの教会の礼拝は説教(メッ
セージ)が中心で、聖書のみ言葉が語られるのが礼拝なのです。最
後に、カトリック教会の名誉のために少し書きますが、ルターによ
る宗教改革の後、カトリック教会内で『対抗宗教改革』が起こり、
自分たちの過ちを是正をしました。これで、その後のカトリック
教会が神から恵みを受けることとなったのです。 (Oct,31,2010)