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2011.11.6
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  苦しみにあったことは



『わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉
を守ります』          (詩篇119篇67節)


『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによっ
てわたしはあなたのおきてを学ぶことができました』  
                (詩篇119篇71節)


今日は「苦しみ」について話します。ここにある『苦し
みにあったことは、わたしには良い事でした』ということ
は、いったいどういうことでしょうか。これは聖書の逆説
(パラドックス)です。広辞苑を開いてみると、「逆説と
は真理と認められるものに反する説。聖書の『貧しい人た
ちはさいわいである…』、また『悲しんでいる人たちはさ
いわいである…』といった説。これは真理に反対している
ようであるが、よく吟味すれば真理であるとする説」とあ
ります。

 

 では、なぜ苦しむことが良い事なのでしょうか。わたし
たちは知らず知らずのうちに神から離れたり、とんでもな
い方向に行ったりするものです。そんなときに神はわたし
たちに試練を与えて覚醒させ、正しい道に導いてくれるの
です。つまり試練は私たちを神の愛に目覚めさせ、信仰の
正しい道に導くための試練であって、決して神からの罰で
はないのです。

 ヘブル書12章6節に『主は愛するものを訓練し、受け
入れるすべての子を、むち打たれるのである。…神はあな
たがたを子として取り扱っておられるのである』とありま
す。つまり試練は神の愛からでたことなのです。だから試
練を受けたからといって失望したり落胆することはありま
せん。また10節には『たましいの父は、わたしたちの益
のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるの
である』とあります。また、その後に『しかし後になれば、
それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるよ
うになる』とあります。

 ルカ福音書15章にイエスがお語りになった有名な「放
蕩息子の譬え話があります。これも神の愛について語った
ものです。父から財産を貰った息子は他国で一旗上げよう
としましたが、その前に財産を放蕩して使い果たしたので
す。そして無一文になった息子は人生のどん底に落とされ
ました。信頼していた友だちからも見捨てられ、はじめて
本心に立ち返った息子は、こんな他国でのたれ死にするよ
りも父のところに帰って雇い人のひとりにでも受け入れて
くれればと、父のところに帰っていったのです。

 

 ところが父は、その姿をいち早くみつけて駆け寄り、抱
きしめて迎えたのです。しかも手には指輪をはめ(これは
子供の印)、上着を着せ、はきものを足にはかせて家に迎
え入れたのです。つまり神は悔い改めて立ち返るものを赦
して迎えてくださる神の愛だったのです。そして放蕩息子
が悔い改めたのは、彼がどん底の苦しみを経験したからで
す。まさしく『苦しみにあったことは、良きことだった』
のです。人間は横着ですからなかなか悔い改めて本心に立
ち返りません。だから神は試練を与えなさるのです。

 マナセ王のことについて少し話します。歴代志下33章
12節から13節をみましょう。『彼は悩みにあうに及ん
で、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身
を低くして神に祈ったので、神はその祈りを受け入れ、そ
の願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨
ませられた』とあります。

 マナセ王は南ユダ王国の14代目の王で、父ヒゼキヤの
後を継いで若干12歳で王となり55年間在位したのです。
しかし最悪の王といわれ、父ヒゼキヤが宗教改革をして国
内から取り除いた偶像礼拝を復活したのです。また預言者
イザヤをのこぎりでひき殺したといわれています。こんな
王に55年間も権勢をふるわれたのでは国民はたまったも
のではありません。そこで神はマナセが悔い改めるように
試練を与えられたのです。

 

 神はアッスリヤの国を動かせてエルサレムを攻め、マナ
セ王を捕えて青銅のかせにつないでバビロンに連行して行
ったのです。これはマナセ王にとっては屈辱的なことでし
た。この出来事によって王は本心に立ち返ったのです。
『彼は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その
先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神
はその祈りを受け入れ、その願いを聞き、彼をエルサレム
に連れ帰って、再び国に臨ませられた』。つまり神は彼の
悔い改めを受け入れて赦されたのです。

 15節以下に、悔い改めたマナセ王のその後が書いてあ
ります。『主の宮から異邦の神々および偶像を取り除き、
…町の外に投げ捨て、主の祭壇を築き直して、酬恩祭およ
び感謝の犠牲を、その上にささげ、ユダに命じてイスラエ
ルの神、主に仕えさせた』のです。これがマナセ王の悔い
改めの実だったのです。
 

 あれほどの悪王でしたが、『彼は悩みにあうに及んで』
覚醒をして神のもとに悔い改めて立ち返ることができたの
です。ですから、マナセにとっても試練は良きことだった
のです。わたしたちも試練を神の子とする試練として受け
入れたいものです。

                 (Nov,06,2011