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2011.11.13
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  主をわたしの前におく




『わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの
右にいますゆえ、わたしは動かされることはない』。
                 (詩篇168節)

この「主をわたしの前に置く」とは、「いつも神と共に
ある」という意味です。つまり『臨在信仰』を言っている
のです。そうすれば、わたしたちの回りでどんなことが起
こってもわたしたちは動揺することはありません。主がわ
たしたちと共にあって守ってくださるからです。

詩篇462節に『このゆえに、たとい地は変り、山は海
の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴
りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え
動くとも、われらは恐れない』とあります。これは天変地
異のことを言っているのです。「21世紀は天変地異の世紀
だ」と言った人がいました。そしていろんな事件が世界中
で起こっています。しかしどんなことが起こっても神と共
にあるならばなにも恐れることはありません。

4節には『一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、
いと高き者の聖なる住まいを喜ばせる。神がその中におら
れるので、都は揺るがない』とあります。わたしたちの人
生もいつ何が起こるかわかりません。しかし神が共におら
れるならば「都はゆるがない」のです。ですから、どんな
ときでも神と共に歩むことです。

 創世記に登場するヨセフのことを話します。彼は波瀾万
丈の人生をおくった人です。彼の父ヤコブは12人の男の子
を持ちましたが、この12人がイスラエルの12支族となった
のです。そしてヨセフはその11番目の子供でした。ところ
が父はヨセフだけを格別に寵愛したのです。それは彼の弟
ベニヤミンが生まれて直ぐに母ラケルが死んだので、物心
ついたヨセフにとっては寂しい境遇となったからです。父
の寵愛を一身に受けて増長したヨセフは、なおも父の愛を
独り占めにしようと、兄たちの悪い噂を父に告げ口をした
のです。そのため、兄たちから憎まれ、ある日エジプトに
奴隷として売られたのです。

彼の生涯は一夜にして不幸のどん底にたたき落とされま
した。でもヨセフはだれを恨むことなく、主人の家で真面
目に働きましたので、主人に信頼されて家のことはすべて
任されるほどになりました。その秘訣は『主がヨセフと共
におられたので』(創世記392節)とあります。つまり
神がヨセフと共にあって彼を慰め励まされたから自暴自棄
にならなかったのです。

ところが主人の妻から言い寄られ、関係を迫られたとき、
それを拒んだために、逆に憎まれて「ヨセフが誘惑をした」
と訴えられて獄に入れられました。弁解のチャンスもなく、
裁判を受けることもなくまさしく冤罪事件でした。そのと
きヨセフは模範囚でしたので獄吏がヨセフに一切を任せた
ほどでした。なぜこんな逆境のなかにありながら自棄をお
こさなかったのでしょうか。それは『主がヨセフと共にお
られたから』です。わたしたちも「主をわが前に置く」な
らば、どんな逆境にも耐えることができます。


再び詩篇1611節にいきますが、『あなたの前には
満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえに
もろもろの楽しみがある』。ここに「みちあふれる喜び」
とありますが、いつまでも心にあふれてくる喜びです。
この世の喜びは「喜びの果てには憂いがある」とありま
すが、そのときはどんなに喜んでいても時間がたつとと
もにに消えてしまうようなものです。しかし、神と共に
あるときいつまでも絶えることなく溢れ出る喜びなので
す。

 

柘植不知人先生が大正年(1915年)に梅田で聖霊
の盈満(聖霊に満たされたこと)を受けた経験が、ご自
分の自叙伝『ペンテコステの前後』に書いてあります。
そのとき心の底から喜びが満ち溢れて、「どんなに抑え
ようとしてもどうすることもできなかった」とあります。
皆さんはいつも喜びに満たされていますか。恵まれたク
リスチャンはいつも喜びに満たされていなければなりま
せん。クリスチャンが暗い顔をしていては証しになりま
せん。聖霊に満たされて喜びに溢れ、明るい顔をしてい
たら人々が「どうしたらそんなに明るくなれるのですか」
と近寄ってくるのです。

そのためには聖霊に満たされることです。ガラテヤ書
5
22節に『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容…』と
あります。わたしたちが聖霊に満たされるとき愛に満た
され、喜びに溢れ、平和、(平安)に満たされた人生に
なるのです。

次に『わたしの身もまた安らかである』(9節)とあ
ります。神に近づくときに神はわたしたちと共にいて平
安な心を与えてくださると言うのです。人間、何が幸せ
かといっても、いつも心に平安が与えられることに優る
ものはありません。どんなに財産があり、いい環境にめ
ぐまれても、また名誉地位があっても、その人の心に平
安がなければ、こんな虚しいものはありません。

この平安は聖霊に満たされるときに与えられるもので
す。神を信じない人が「平安です」というかもしれませ
んが、イザヤ書5721節に『悪しき者は波の荒い海の
ようだ。静まることができないで、その水はついに泥と
汚物とを出す。わが神は言われる、「よこしまな者には
平安がない」』とあります。平安がないのでいつも不安
で、戦々恐々としていなければなりません。しかし、神
の臨在と共にあるならば、どんな嵐の中でも、イエスが
舟のなかで熟睡しておられたように、平安にいることが
できるのです。そしてイエスは『わたしの平安をあなた
に与える』
と言われました。             
                  (Nov,13,2011)