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2010.11.28
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放蕩息子の譬話と神の愛

 

『しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を
出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはか
せなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて
楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、い
なくなっていたのに見つかったのだから」。それから祝宴がはじ
まった』。
              (ルカ福音書15章22節)

 

 ルカ福音書15章でイエスが語られた『放蕩息子』の譬え話から
『神の愛』についてお話します。その前に、キリスト教の本質を一
口で言うならば『愛の宗教』だということです。それはまず第一に、
神がわたしたちを愛して、わたしたちを救うためにそのひとり子
キリストをこの世に送り出してくださったからです。それはヨハネ
福音書3章16節に『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世
を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである』とあります。

 

 またヨハネの第一の手紙4章10節にも『わたしたちが神を愛した
のではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のた
めにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛
がある』とあります。これは御子キリストを人類の救いのために、し
かも十字架の死をとおして罪の贖いを成就するために、御子をこの世
につかわされたのは神の愛から出たことです。これがわたしたちがこ
れから迎える『クリスマス』なのです。そしてクリスマスは神の愛が
わたしたちに与えられた日なのです。

 

 次に、ヨハネの第一の手紙3章16節に『主は、わたしたちのため
にいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛というこ
とを知った』とあります。これはイエス・キリストの十字架の死を言
っています。そしてイエスの十字架はわたしたち全人類の罪を贖うた
めの死であって、ここにイエスの愛が表されているのです。この二つ
のことからキリスト教は『愛の宗教』だということができるのです。
この『神の愛』、『イエスの愛』によって救われ、生かされたわたし
たちもまた愛の人にされて、神を愛し人々を愛する愛の人にされるの
です。

 

 さて、この15章には三つの譬え話が収められています。そして
いずれも神の愛が語られているのです。その一つが羊飼いの話です。
百匹の羊を飼っていた羊飼いが、一匹の羊がいなくなっているのに
気づき、99匹を野に残して迷子になった羊を捜し歩いたという話
です。ここに神の愛が語られているのです。「あと99匹もいるか
ら1匹ぐらいどうでもいい」、とは羊飼いは考えませんでした。羊
飼いは見つけるまで捜し続けたのです。つまり神はひとりの人でも
迷い出て滅びるのを喜ばれません。見つけるまで捜しつづけたのは
神の愛です。神はどんなに小さな魂をも大切にされるお方だったの
です。そして神は今でも、神に背を向けて神から離れて滅びの道に
いる人々をも捜し求めていてくださるのです。この神の愛があるか
らわたしたちは救われたのです。

 

 次に、10枚の金貨を大切にしていた女性が、その中の一枚を紛失
したことを知ったとき、それを見つけるまで捜し続けたという話です。
そして見つけたとき大騒ぎをして喜んだという話です。そのように神
はひとりの人が救われるなら、神にとって大きな喜びなのです。神は
それほどわたしたちを愛してくださっているのです。

 

 そして三つめが『放蕩息子』の譬え話です。これは悔い改めて立ち
返る者を喜んで迎えてくださる神の愛が語られたところです。放蕩息
子は父から離れて他国に行き、放蕩をして父から貰った財産を使い果
たしてしまいました。そしてルンペンのような境遇に落ちたとき、初
めて本心に立ち返り、父のもとに帰ってきました。しかし、父から既
に相続するだけの財産を貰ったので、もう子として帰ることができず、
父の家の雇い人のひとりとしてでも使ってもらおうと帰ってきました。

 

 ところが、息子のことを案じていた父は遠くから息子の姿を見つけ、
走り寄って息子を迎えました。そこで息子は「お父さん、わたしはも
うあなたの子と呼ばれる資格はありません」と言いましたが、父は
「立派な着物を着せ、指輪をはめ、履物を履かせた」のです。つまり
雇い人ではなく自分の子として迎えたのです。指輪は自分の子として
の印しです。また履物を履かせたのは、奴隷は裸足でしたが、この子
は奴隷ではないという印しなのです。つまり親に背いた放蕩息子を赦
して子として迎えたのです。それは息子が悔い改めて立ち返ったから
です。父は言っています。『このむすこが死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから』。

 

 イザヤ書44章22節に『わたしはあなたのとがを雲のように吹き
払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしは
あなたをあがなったから』とありますように、神は悔い改めて立ち返
る者を赦して迎え入れてくださるのです。これが神の愛なのです。皆
さんも神の愛を信じて、悔い改めて立ち返ってください。神はあなた
のすべての罪を赦して神の子として受け入れてくださるのです。

 

 三浦綾子さんの『ひつじが丘』という題の小説があります。彼女
の小説はクリスチャン作家らしく、どの小説の根底にもキリスト教
の信仰が土台となっております。その数多い作品の中でもこの小説
はわたしの大好きな一つです。

 

 北海道のある町の教会に仕えている牧師にナオミという娘がいま
した。女学校を卒業をしてからは町の幼稚園の教師をしていました
が、女学校時代の友人の新聞社に勤めるという兄と知り合い、付き
合うようになりましたが、その男性を一目みた父は「あの男の生活
は乱れている」と見抜き、付き合うのを反対しました。

 

 しかし、その絵描きを志す男性は、「君がいてくれると、いまに
もきっと傑作が描ける」と言うのです。そしてその人が他の町の支
局に転任をしたのを、後を追うようにして男性のところに行ってし
まいました。それを心配した母はナオミに手紙を書いて「このお金
は旅費です。いつでも帰りたくなったら、これで帰ってくるように」
と送金しましたが、お金だけ懐に入れて手紙は破り捨ててしまった
のです。ところが青年は「今に傑作を描いてみせる」と口癖のよう
にいうのですが、一向にキャンバスに向かうことも、鉛筆を手にす
る様子もなく、毎晩のように酔っぱらって帰宅するような始末でし
た。でも今にきっと傑作を画くと信じていました。

 

 ある日、だらしなく脱ぎ捨てたズボンを取り上げたとき、後ろポ
ケットから手紙が落ちました。ナオミがなにげなく拾うと、それは
女性からの手紙で、しかも自分の女学校時代の友人からで、その中
には、二人が男女の関係があることを意味するような内容で、自分
が裏切られていたことを悟ったのです。

 

 頭にカーッときたナオミが気がついたときは自分の住んでいた町
に帰っていました。しばらく父の牧師館の前に立っていましたが、
玄関の横の父の書斎の電気は煌々と灯いていました。父は明日の説
教の準備をしていたのです。ナオミがドアのノブを回すと「カチッ」
と音がしたとたん、「ナオミかー」と父が書斎から飛び出してきま
した。そして娘の姿を見ると、「母さん、ナオミが帰って来た」と
大きな声で奥へ叫んだのです。そしてお母さんも飛び出してきて、
玄関の土間で「よう帰ってきた」と三人で抱き合ったのです。ナオ
ミが何か言おうとすると、「よう分かった、もう何も言わないでも
いい」と何も言わせないのです。

 

 後で分かったことですが、お父さんはナオミが一年前に家を出た
ときから、「ナオミは必ず帰ってくる。帰るのなら夜中だろう」と
言って、牧師館の玄関の鍵を掛けさせなかった、ということを知っ
たのです。この小説は、お父さんの愛をとおして神の愛を書いたの
です。そして、神はわたしたちが悔い改めて立ち返るのを鍵を掛け
ずに待っていてくださるのです。『わたしに立ち返れ、わたしはあ
なたを贖ったから』              (Nov,28,2010)