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2011.12.04
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  主は泣く声を聞かれた

 

『主はわたしの泣く声を聞かれた。主はわたしの願いを聞かれ
た。主はわたしの祈りをうけられる』。  (詩篇6篇8-9節)

 

 この詩篇はダビデ王の懺悔の祈りだと言われています。そして
この詩がつくられた背景は、彼の「身からでた錆」ともいわれま
すが、その息子アブサロムに背かれて反乱事件を起こされたとき
のことでした。だれでも人に背かれるということは辛いことです
が、自分の身内、ましてや子供に背かれるということはこんな辛
い苦しいことはありません。

 

 そこでダビデは神に助けを求めて祈ったのです。その祈りは真
剣な祈りでした。2節『主よ、わたしをあわれんでください。わ
たしは弱り衰えています』。4節『主よ、かえりみて、わたしの
命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助
けください』。と祈っていますが、その祈りは真剣なものでした。

 

 ここでダビデは「泣く声を聞かれた」と言っていますが、これ
は涙の祈りです。つまり涙を流すほどの真剣な祈りだったのです。
神は「愛の神」ですから涙を流すほどの真剣な祈りにこたえられ
ないはずはありません。そしてダビデは祈りに答えられて勝利を
したのです。このような経験から神を崇めて歌ったのがこの詩篇
だったのです。

 

 わたしたちも日々の生活のなかでいろいろと辛いこと、悲しい
こと、困ったことに出会います。そんなときに失望落胆をしない
で神に真剣に祈ってください。神はその祈りに必ずこたえてくだ
さいます。

 

 旧約聖書のなかに、同じように涙の祈りをささげてこたえられ
た人物が二人登場します。そこでそれらの人の祈りの姿について
話します。そのひとりはヒゼキヤ王です。列王記下201節から
『ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者
イザヤは彼のところにきて言った。「主はこう仰せられます、
『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえるこ
とはできません』」。そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈っ
て言った…。そしてヒゼキヤは激しく泣いた』とあります。ヒゼ
キヤは神から死の宣告を受けたにもかかわらず神に対して祈った
のです。その祈りの姿勢は「壁に顔を向けて」とあります。ヒゼ
キヤは神から死の宣告を受けたにもかかわらず神に対して祈った
のです。その祈りの姿勢は「壁に顔を向けて」とあります。これ
は気が散らないように真剣な祈りです。そして「激しく泣いた」
とあるように真剣な祈りだったのです。

 

 ところが『イザヤがまだ(王宮の)中庭を出ないうちに、主の
言葉が彼に臨んだ。…『わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの
涙を見た、見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは
主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわい(寿命)
を十五年増す』と変更されたのです。これはヒゼキヤの涙の祈り
に神が御心を変えられたからです。涙は人の心を動かすだけでな
く神の心をも動かすのです。

 

 次に、サムエル記上1章に登場するハンナの祈りです。9節に
『ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた』とあ
ります。ハンナの祈りもまた「涙の祈り」だったのです。彼女は
子供に恵まれず、なんとかして与えられたいと真剣に祈りました
が、その祈りが涙の祈りでした。その祈りが祭司の目にとまり酔
っぱらいと誤解されましたが、ハンナの真剣な祈りを知った祭司
は、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたのも
とめる願いを聞きとどけられるように」と祝福をされ、与えられ
た男の子が将来イスラエルのために活躍する祭司サムエルとなっ
たのです。このサムエルもハンナの涙の祈りによって与えられた
子供でした。

 

 わたしがまだ若い頃、ある地方の教会の聖会に毎年のように招
かれて御用をしていました。あるとき30代半ばの女性が小さな男
の子を連れて来ていました。「わたしはいつもお礼参りにこの聖
会に来ています。この子供はこの聖会で授かりました」と話しま
した。詳しく話を聞くと、その女性は教員の主人と出会って結婚
をしましたが、主人の実家が農家だったので手伝わなければなら
ず、都会育ちの女性には辛い仕事でした。そしてまた子供にもな
かなか恵まれず、回りの人たちの心ない言葉に心を痛めていまし
た。

 

 ある人が、「神戸に良く見る占い師があるから、いちど相談し
てみたら」と言われ見てもらったら、占い師は「あなたの家の巽
の方角に地蔵さんがあるから、それを拝んだらいい」と言われた
ので、その地蔵さんを探して毎朝、家族の人に知られないように
暗いうちに起き出て拝みましたが、いくら拝んでも子供は授かり
ませんでした。すると、この地蔵さんを抱いて寝たらいいと、手
の中に入るほどの小さい地蔵さんを持ってきてくれましたので、
「溺れる者は藁をもつかむ」ように、昼間はタンスの上に置き、
夜は抱いて寝ましたがそれでも子供は授かりませんでした。

 

 それを聞いたクリスチャンのおばさんに「まだそんなことをし
ているのか」とすごい剣幕で怒られました。そして「こんど○○
教会で聖会があるから、身体の弱いお姉さんの介添えをして行っ
てほしい」と言われて、初めて聖会に出席しました。その集会で
『われは全能の神なり』『人にはできないことも、神にはできる』
というみ言葉が示されましたので、そのみ言葉を信じて真剣に祈
ったところが、それから間もなく子供を授かったというのです。
彼女の真剣な祈りが神に聞かれたのです。

                         (Dec,04,2011