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2010.12.05
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わたしの愛の中にいなさい

 

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した
のである。わたし(イエス)の愛のうちにいなさい』。

 (ヨハネによる福音書15章9節)

 前回は『放蕩息子』の譬え話をとおして神の愛ということを話
しました。息子が放蕩して全財産を失ったときにはじめて本心に
立ち返り、父のところに帰ってきました。そのとき父はすべてを
赦して子として迎え入れたのです。このように、神はわたしたち
が悔い改めて立ち返るとき、すべてを赦して、子として迎え入れ
てくださるのです。これが神の愛です。

 さて、人間にとっていちばん大切なもの、それは愛です。ある
大学で学生にアンケートをとりました。つまり「いちばん大切な
ものはなんですか」と。するといろいろな答えがでてきましたが、
そのなかでもいちばん多かったのは『愛』という回答だったそう
です。彼らが答えた愛は、あるいは自分の好きな人を愛するとい
ったエロス的な愛だったのかもしれませんが、とにかく『愛』と
答えた人は素晴らしい回答をしたと思います。

 コリント前書1313節に『このように、いつまでも存続する
ものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大
いなるものは、愛である』とあります。人間は誰かに愛されたい。
また誰かを愛したいものです。そして愛され、愛することを知っ
てはじめて人は、力強く生きる勇気と希望が与えられるのです。

 ヨーロッパのある国で、ひとりの老婆が自殺をしました。この
国は福祉が行き届いた国で老人も経済的に不自由をしていないと
思っていたので、人々は驚きました。そして他に身寄りもない人
だったので、市の福祉課の人がきて葬式をしましたが、友人も多
くはなく寂しい葬式でした。その後で借りていたアパートを明け
渡さなければなりませんので、福祉課の人が荷物を片づけていま
したら、一冊の日記帳が見つかりました。それにはある頁から、
一行だけ「今日もだれも来てくれなかった」とだけ書いていたの
です。それが老婆の自殺するその前日まで書かれていました。そ
こでこの人は寂しさのために自殺をしたとわかりました。

 お婆さんは暮らしに困っていない、これが盲点だったのです。
しかし、このお婆さんがいちばん欲しかったのはお金ではなく、
人々からの愛だったのです。もしお婆さんが困っていることを知
っていたら、近所の人たちは放っておかなかったとおもいます。

  イエスは、わたしはあなたを愛している。だから『わたしの
愛のうちにいなさい』と言われました。このイエスの愛は十字架
による犠牲的な愛です。ヨハネの第一の手紙316節に『主は、
わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わ
たしたちは愛ということを知った』とあります。このイエスの十
字架はわたしたちの罪の贖いのためで、流された血潮によってわ
たしたちの罪を贖ってくださったのです。これはイエスの犠牲的
な愛です。

 次に、神の愛は『限りなき愛』です。人間の愛には限りがあり、
事情、場合によっては変わることがあります。ホセア書64節に
も『あなたがた(人間)の愛はあしたの雲のごとく、また、たちま
ち消える露のようなものである』とあるように当てになりません。
しかし神の愛は、ひとたび「お前を愛する」と約束してくださった
ら、たとえわたしたちが神に背を向け、また神を裏切るようなこと
があっても、その愛は普遍です。決して変わりません。

 エレミヤ書313節に『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛
している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』
とあります。この限りなき愛とは「普遍的な愛」なのです。先程の
ホセア書の言葉のように、人間の愛は限りがあり、時と場合によっ
て変わってしまうことがあります。しかし神の愛はひとたび愛する
といわれたらどこまでも愛しつづけてくださる愛なのです。ときに
は、わたしたちが神に背を向けるようなことがあっても、また神か
ら離れるようなことがあっても、神の愛は変わらず愛し続けてくだ
さるのです。これがほんとうの愛です。そしてこのような愛に生か
されているわたしたちはしあわせです。

 三浦綾子さんの小説に『細川ガラシャ夫人』という作品があり
ますが、その中に著者は明智光秀をとおして変わらない神の愛を
描いています。彼は土岐家で生まれ、小さいときから神童といわ
れるほど利発な子供で将来を嘱望されていました。この光秀に許
嫁(いいなづけ、双方の親の合意で幼少のときから婚約を結んで
おくこと)[広辞苑]があり、それは妻木かげゆ左衛門の娘「おひ
ろ」という光秀より四歳年下の娘でした。この女性は近在でも有
名なほどの美人で、「花に近づくと花も恥らって萎れてしまう」
といわれるほどの人だそうです。

 

 光秀が18歳のときにいよいよ婚礼の日が決まりましたが、そ
の直前にひろこが高熱で寝込んでしまいました。そして両親の厚い
看病のすえ熱は下がりましたが、彼女の顔に痘痕(あばた)ができ
てしまったのです。疱瘡だったのです。こんな姿では光秀の嫁とし
て迎えてくれるはずがない、と父はひろこを嫁に出すことを諦め、
妹の八重を替え玉にして光秀のもとに送りだしたのです。ところが、
替え玉が露顕して八重が送り返されてきたのです。

 その八重が光秀から一通の手紙を持たされていました。震える手
でそれを広げてみると、そこにはこう書かれていました。『余がい
いなずけせしは、おひろ殿にて、お八重殿ではご座なく候。たとえ
面がわりなされし候えども、余が契りたるはこの世でただひとり、
おひろ殿にて候…』。
 

 それを見て父は急いで、いま八重が送り返されたた輿におひろを
乗せて、光秀のもとに送って無事婚礼が整ったのです。なぜ光秀は
痘痕だらけになったひろこを妻として迎えたのでしょうか。それは
ひろこの心情を憐れんだからです。そしてふたりの愛情によって生
まれたのが『お玉』で、この子が細川忠興の妻となり、キリシタン

の信仰をもち、洗礼名を『ガラシャ』と付けたのです。

 著者はこの光秀の愛に神の愛を写しだしたのです。つまり、神の
愛は事情や場合によって変わらない『普遍的な愛』であることを表
現したのです。そして、この神の愛は今もわたしたちに注がれてい
るのですから、これを信じて力強く生きてください。

 先週は三浦綾子さんの小説『ひつじが丘』の前半について話まし
たが、それはナオミが家に帰ってきたとき、両親は一年間玄関のド
アの鍵を掛けないで、いつ娘が帰ってきてもいいようにと待ってい
たのです。神もまたわたしたちがいつでも立ち返ることができるよ
うに、胸襟を開いて待っていてくださるのです。

 さて、ナオミが家に戻ったとき、それを悟った良一はナオミを
連れ戻しにきましたが、ナオミは自分を裏切った良一を赦せなく、
ガンとして帰ることを拒んだのです。そんなやり取りをしている
最中に良一は喀血してしまいました。ナオミの両親は自分たちの
牧師館の一室で寝かせ献身的な看病をしたのです。自分の娘を騙
した男に対して愛を注いだのです。ところがナオミは親から何と
言われても良一の部屋に行こうともしませんでした。

 良一の病状も小康し、気分がいい日はキャンパスに向かって何
か絵を画くようにまでなりました。そしてその絵はだれにも見せ
ようともしませんでしたが、ただ「この絵はクリスマスにナオミ
にプレゼントするのだ」と言っていました。


その良一がある冬の凍てつく晩に道端に倒れて凍死してしまいま
した。そして葬式の日に、彼の柩の横に遺作となった絵が置かれ
ていました。『イエスの十字架を見上げる自画像』という題で、
十字架上のイエスと、その足元でひとりの男がキリストの血潮を
浴びて、真っ直ぐに見上げているのです。その顔はまるで泣いて
いるような、また悔恨に満ちた良一の姿なのです。そしてイエス
に自分の罪の赦しを仰ぐ信仰告白の絵だったのです。彼は罪多い
人生を辿った人でしたが、ナオミの両親の愛に感動を受けて目覚
め、悔い改めてイエスに赦しを乞うていたのです。(Dec,05,2010