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2010.1.31
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『背水の陣』になって

『するとイエスはシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間
をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨てて
イエスに従った』。
                 (ルカ福音書511)

 

 この箇所は漁師たちが、イエスの『今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』
と声をかけられたとき、彼はイエスに従い弟子となったところです。なぜ彼らは
このように単純にイエスに従ったのでしょうか。それはイエスのお言葉に従って
網を下ろしたとき、網が破れそうになるほどの魚が獲れるという奇蹟を見たから
です。どんな人でも奇蹟を見るならば信ずるようになれます。

 

 あるお爺さんがおられました。この人は若いときに教会に来て救われ、長い間
クリスチャンでしたが、もうひとつスッキリとしたクリスチャンになれませんで
した。ある日、わたしのところに電話があり、「聖書の教えはいいのだが、どう
しても聖書の奇蹟が信じられない」と言ってきたのです。そこで「では、信じら
れるように祈ります」と返事をして、そのお爺さんの信仰のために祈っていました。

 

 ところが、ある家庭集会のときに、「先生、奇蹟が信じられるようになりまし
た」と話されましたので、「それはよかったですね。あなたのために祈っていま
したから…。それで、どうして信ずることができるようになりましたか」と聞き
ますと、こんな話をしてくれました。

 夕食のときに、食物と一緒に入れ歯を飲み込んでしまいました。尖った金具の
ついた部分入れ歯でしたので、その金具が胃壁か腸にでもひっかかったら開腹を
して取り出さなければならなくなるので、家内にご飯を団子にしてもらって呑み
込みましたが、一向に下におりないのです。そこで家内と一緒に真剣に神に祈り
ました。すると2日後に出てきました。これがその入れ歯です。と口から取り出
し見せてくれました。

 そのお爺さんは若いときから頭のいい理知的な人だったので、理屈では素直に
信ずることができませんでしたが、この事件を通して奇蹟を素直に信ずることが
できるようになり、すっかり信仰的になり、それから二年ほど後に恵まれて召さ
れていかれました。素直に信ずることのできない人には信ずることができるよう
にしてくださるのが神の愛です。

 

 さて、イエスの招きの声に従った漁師たちは、『いっさいを捨ててイエスに
従った』のです。これは他の聖書では『すると、彼らはすぐに網を捨ててイエス
に従った』(マタイ福音書420)とあります。これはもう漁師には戻らないと
いう彼らの覚悟が現されているのです。わたしたちが何かをするときに中途半端
な態度だったり、逃げ道を残していたのでは、真剣に、そしてまた命懸けに従う
ことはできません。『背水の陣』になることが大切です。

 『背水の陣』という言葉は、今から二千百年ほど前にまとめられた中国の
『史記』という歴史書の中にはじめて出てくる言葉で、漢の韓信が趙を攻めた
とき、わざと後方の橋を落として川を背にして陣を敷き、味方に決死の覚悟を
させて戦わせ、大いに敵を破ったという古史からきた言葉です。(広辞苑)

 列王記上1919節にエリシャが預言者エリヤの招きにこたえて弟子になる
ところがあります。このとき彼がした行動は『エリシャは、ひとくびきの牛を
取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、
立って行ってエリヤに従い彼に仕えた』とあります。

 エリシャは百姓をしていましたが、「12くびきの牛で田を耕していた」
とありますから、かなり裕福な百姓のようでした。その彼が預言者の弟子に
なるとき、二頭の牛を殺し、くびきでそれを焼いて村の人々に振る舞って
別れをしたのです。それは単にお別れの儀式ではなく、「もう二度と百姓に
戻らない」というエリシャの覚悟が現れていたのです。
このように『背水の陣』で預言者に従いましたので、彼はエリヤの後継者と
して立派にその務めを果たしたのです。

 

 柘植不知人先生が救われて間もないころ、当時は兵庫区の荒田町に住んで
おられたとき、町内一斉の大掃除がありました。そこで柘植先生も日光消毒
をするため、家の中の家財道具を庭に出して一休みをしていたとき、どの家
もたくさんの家財道具を出しているのに比べて、自分の家はほんの少しで
「神に従って献身するということはこんなことか」と眺めていました。

 

 ところが、庭の隅に風呂敷包みがあるのに気づき、「なんだろう」と考え
たときに、自分が救われる以前の物がまだ残っていたことに気がつきました。
その中身に絵の道具が入っていました。救われたときに罪人時代の物はみな
処分したはずなのに、何故こんな物が残っていたのか考えたとき、自分の心
の隅に「もし伝道者として成功しなかったときは、また絵を描いて生活をし
たらいい」という魂胆があるのに気がつき、その風呂敷の上から金槌で叩き
壊したのです。もう昔の自分には戻れない。これが柘植先生の『背水の陣』
だったのです。

 

                                 (Jan.31.2010)